福山と笠岡は、古くは備後と備中の国、今は広島県と岡山県と行政域が分かれていますが、その昔2回
同じ政治域であった時代もあり、地縁関係に深いものがあります。
最初は江戸時代初期、水野勝成が備後福山と笠岡を含む備中2郡を合わせ所領して封じられてから、
水野家5代・約80年間でした。水野家の跡目断絶による所領替えに伴い、笠岡は福山藩から切り離され
幕府直轄の天領となり、笠岡に代官所が置かれ幕末まで代官による統治がなされました。
2回目の同じ政治域は、幕末の廃藩置県から明治初期にかけて、福山・笠岡を含めた「小田県」となり、
その小田県庁が笠岡に置かれた時代です。 |
代官所、小田県庁の門跡
笠岡小学校の正門として保存 |
代官所の
跡地石碑 |
小田県庁の 跡地石碑 |
笠岡は室町から戦国時代前半には地方豪族「陶山氏」が支配していて、後背地の吉田(関戸)にあった
「遍照寺」を笠岡に移転させて遍照寺等の門前町として集落が形成され、戦国時代後期には毛利領
の東端に当たり、海に突出した古城山に支配下の「村上氏」の城砦が築かれていたようです。
織田信長の大阪本願寺攻めに対して本願寺を支援していた毛利水軍の将「小早川隆景」の前線基地
が笠岡に置かれた。その後、関が原の合戦で敗軍となった毛利領は防長2国に縮小され、笠岡は上述
のように、毛利領から福山藩領になりました。 |
大正時代の笠岡の町並、正面が古城山 |
遍照寺の多宝塔 |
笠岡地方には大きな河川が無く、江戸時代初期は
多くの遠浅の湾が入り込んだ地形でした。
水野勝成は福山藩主になるとき、受領される予定
の尾道を断り、あえて笠岡を含む備中2郡を所望し
たと伝えられています。理由は、遠浅の湾を干拓
すれば耕作地が大幅に増加(石高増)と、福山城
築城に必要な石材が自領の笠岡諸島(北木島・
白石島等)から調達できる考えたと想像されます。
現在、笠岡の平坦地の殆どは干拓・埋立てにより
造成されて、右は主な干拓と歴史を示します。
江戸時代に造成された干拓は、図の@〜Jの地域
であり、Kの富岡湾、Lの笠岡湾干拓は昭和時代
に完成したものです。
また、稲作に必要な水の確保のため谷間の上流に
溜池が数多く造られましたが、水源の確保が困難な
生江浜、神島新開等の一部は塩田として活用さ
れたようです。 |
笠岡地区の干拓の歴史説明図 |
@吉浜干拓 1661年 A生江浜干拓 1669年
B富岡干拓 1674年 C神島新開 1678年
D西大島古新田 1689年 F入江干拓 1738年
G西大島新田 1731年 J茂平新田 1811年 |
富岡湾干拓前(昭和初期・古城山から) |
干拓後現在(鉄道の位置は変らず) |
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