歴史探訪         (文:田中 洋さん・写真:元木)

蔵王(旧市村) 史跡めぐり
福山市の東部に位置する蔵王地域(蔵王町,南蔵王町)は、1900年代半ば頃(昭和30年代)までは、
のどかな田園風景が広がる,当時は深安郡市村と呼ばれた人口約2,250人、450戸の村でした。
1956年(昭和31年9月)に2町8村が福山市に合併されたとき、この地域で昔から地元のシンボルで
ありまた信仰の山として崇められた蔵王山の名前をとって福山市蔵王町となりました。

1969年(昭和44年)から、東部土地区画整理事業が施工され、国道182線を始め主要道路が敷かれ
急速に宅地化が進むにつれ、大手スーパーの進出をきっかけに、各業種専門店の出店が相次ぎ、
地域の様相が一変しました。
現在でも南蔵王町には、新しい住宅・大型マンションの建設や、様々な業種店舗の進出が続き、今や
人口約11,000人、4,500世帯と大きく発展し、福山市東部のベッドタウンとなっております。
1.蔵王山
標高226mの蔵王山、東側最高峰を蔵王が峰といい
かつては陸軍の測量台が置かれていたが、現在は
国土地理院の標石柱がある。

中央の峰を阿弥陀が峰(別名龍王山)といい、山頂に
はかって醫王寺があったが焼失し、現在地(蔵王小南側)に移された。現在、山頂下に八大龍王社(別名
高麗(たかおかみ)神社)があり昔から干ばつの際には
雨乞いを祈願したといわれる。
万葉集に謳われている
「路(みち)の後(しり)、深津島山暫(しまやましば)しくも君が目(め)不見(みね)ば苦しかりけり」は蔵王山を
中心とする市村・深津半島一帯が風光明媚な名所として知られていたことがうかがえる。
現在も山頂付近に猿田彦神社や石鎚神社のお堂があり、氏子達により毎年例祭が執り行われており、
そこからのふもとの景色はすばらしい。
現在蔵王山は「蔵王憩いの森」として、山頂に続く登山道や中腹に公園・駐車場など整備され、市民の
手軽なハイキングコースとして楽しむ人が多い。
2.宮の前廃寺跡(国指定史跡)  一区 宮の前
「往古海蔵寺という寺あり。当村の生土(うぶすな)
八幡は海蔵寺の鎮守たりしとぞ。則海蔵寺廃跡は
八幡の境内にありて、礎(いしずえ)今に残れり」と備陽
六郡誌(江戸時代中頃)にあり。
古寺跡とみられて昭和5年早稲田大学西村真次博士
により、発掘調査が行われた。

調査結果、奈良時代に金堂が創建され、その後塔が
建てられたが平安時代に金堂が消失、続いて塔が倒
壊したとみられる。
昭和44年に「宮の前廃寺跡」として、国史跡に指定
される。現在の蔵王八幡神社につづく宮の参道を
登ると、右側に塔跡、左側に金堂跡を見ることができ
る。昭和44年に国の指定史跡の指定を受けた。
発掘調査では、塔の軒丸瓦や平瓦、須恵器の皿、
土瓶など貴重な出土品が見つかった。
瓦には「紀臣和古女」「軽部君黒女」などの寄進者の
記銘とみられるヘラ書文字のものがある。
3.弥陀八幡社(蔵王八幡神社)  一区 宮の前
神宮皇后、応神天皇、武内宿禰を祀っており、1711年(正徳元年)の建立。
常夜燈は1858年(安政5年)に建てられた。
古くは海蔵寺の鎮守神であったが、海蔵寺廃絶後は弥陀八幡社と称して、村の鎮守神として祀ったと
いわれている。
主神は仏体であったが1868年(明治元年)神仏混合禁止令により本尊は医王寺に移され、その後は
神鏡をもって御神体とした。
現在の本殿・拝殿は平成3年改築が行われ、鳥居は山陽自動車道建設に伴い現在の位置に移転した。
4.天神社  七区 天神前
素戔鳴尊を祀る小社で1688年から1704年(元禄)
の頃までは天神山山頂に本社があったが、ある祭礼
の日に喧嘩があり、社殿に血が流れたので、新しく造
営しようと今の平地に移した。

その時、社人と社僧が祝詞について争いがあった為
本社を造営せず仮殿のまま推移した。
平成元年にいたり社殿が改築された。
鳥居は1773年(安永2年)村人が疫痢平癒祈願の
お陰を喜び建立したといわれる。
5.阿弥陀山医王寺(真言宗)  四区
1127年(大治2年)崇徳天皇が創設したと伝えられ、
明王院の末寺で元は阿弥陀ヶ峰(現在の蔵王山)
山頂付近にあったが、1533年(天文2年)の戦乱で
焼失した。

その後、現在地のふもとに再建されたが、江戸時代
末期に再度火災で焼失し再建された。
この寺には、室町時代の作とされる「絹本著色弘法
大師画像」が残され、広島県重要文化財に指定され
ている。
6.惣戸神社  五区 惣戸山
別名三島大明神とも称された。
大山祇神社のことであり古来より海上守護神として
信仰されている。
深津と綱木の境の惣戸神社も、古くから船着場が
あったことから出入りする船の守護神として祀られた。

備陽六郡誌に「15代将軍足利義昭の霊を祭る」と記載あり。
現在の社殿は1985年(昭和60年)に改築された。
7.もやい石  五区 綱木
1619年(元和5年)大和郡山の城主から、備後・備中
九郡10万石の領主に封ぜられた水野勝成は、神辺
城に入るため先ず鞆に着き、次いで深津湾に船を進
めて綱木(蔵王)に船を着け、上陸し神辺に向かった
といわれている。

その時船を繋ぎ止めた港が綱木の「もやい石」である。
実際の「もやい石」は大正の初め頃まで存在したが、
その後動かされ現在の石は当時の石とは異なる。
8.上井手川 五区〜一区〜六区
水野氏二代勝俊が新開地への灌漑用水を確保する為、
芦田川からの水路を引いた。
水路は本庄で上井手川と下井手川に別れ、下井手川は
現在の市中を通り手城に至るが、上井手川は木之庄・
吉津・奈良津・深津から蔵王を経て、春日から南に折れて
引野に至る大工事であった。とりわけ綱木(蔵王)付近は
岩盤のため数十尺もの掘削は困難を極めた。

工事を担当した地元の土屋太平は、工事不首尾の際は
切腹すると誓い、全財産を投げ出して工事人を激励し、自らも先頭に立ってこの難工事を完成させたと
いわれる。
9.仁伍の辻堂
「備陽六郡誌」によると市村の辻堂は九ヶ所と記載され
ているが、現存するものは、仁伍の辻堂と大目萱堂の
二ヶ所のみである。
辻堂がおかれている場所は、かつての主要道路沿い、
とりわけ峠の頂上、坂道のふもと、四つ角や村境に多く
みられ、旧市内や江戸時代に干拓されたところには殆
ど存在しない。
辻堂の起こりには諸説があり、旅人や道行く人の休憩
所として水野勝成の発案で建てられたとするもの、死者
の供養や疫病の消除祈願のためといわれているが、信仰の場所として、またその地区の共用物保管・
集会所・休み場所として利用された。
10.市村八十八ヶ所
四国の弘法大師霊場八十八ケ寺に倣い、四国に渡ら
なくても身近で信仰を果たせるよう、1797年(寛政9
年)村内に石仏を祀り設置された。
当時は疫病の発生が絶えなかったことから、病気平癒
などの祈願も巡拝の目的にしたようである。
現在の設置場所は、長年の開発などによる地形変遷
で往時とは異なる場所も多く、数番をまとめて設置さ
れているところもある。今もそれぞれ近所の人や通りか
かりの人達が誰かれとなく花や水を祀っている。
11.常夜燈 六区 高崎
六区町内高崎に大きな常夜燈がある。
金毘羅さん信仰に造られたもので、燈の右面に
金毘羅大権現と刻まれており、反対面は聰敏明神とあ
るが、聰敏明神とは水野勝成の神号であり、水野勝成
の遺徳を称えて彫り込んだものである。
四区町内の旧 県道沿いにも、1832年(天保3年)に
造られた常夜燈が現存する。

参考文献
蔵王郷土歴史研究会発行 蔵王(市村)史跡めぐり]
クリック⇒上古の備後沿岸推測図(蔵王公民館)
トップページ 予定行事 実施行事 会員情報 健康メモ 同好会 菱菜館 旅1 旅2 歴史探訪 温泉案内 編集後記 カレンダー
inserted by FC2 system